古くから大陸の玄関口として栄えた敦賀の歴史を知る

福井県の南西部にある敦賀市は日本海側のほぼ中央に位置し、琵琶湖のちょうど真上に当たる人口約7万人の港まちです。周囲三方を山に囲まれ北部を日本海に開いた敦賀港は、奈良時代から博多や下関とともに三大要津(注1)の一つに数えられ、江戸時代以降は日本の各地域とアジア大陸を結ぶ交易の拠点として栄えました。明治時代になるとロシア極東にあるウラジオストクへの定期航路が開かれ、敦賀はヨーロッパの玄関口として発展していきます。また東欧のリトアニア・カウナスにある日本領事館の杉原千畝の発給した「命のビザ※中面記事参照」を持った多くのユダヤ人難民が上陸。

敦賀港は幾度も難民を受け入れてきたことから、今では「人道の港」とも呼ばれるようになりました。敦賀港開港100周年を記念して整備された金ヶ崎緑地は、港に隣接した緑の芝が美しい海浜公園です。この緑地内にある白い壁・赤い屋根の建物が「人道の港敦賀ムゼウム」。ここは敦賀港の歴史が学べるスポットとして、平成20年のオープン以来、多くのリピーターが訪れています。今回はこの敦賀ムゼウムを訪ね、人道の港・敦賀の歴史についてご紹介します。

「ムゼウムとはポーランド語で“ミュージアム(資料館)”という意味です。この名前が示すように、ポーランド孤児やポーランド系ユダヤ人難民の出来事を中心に展示してあるんですよ」と教えてくださったのは館長の古江さん。敦賀ムゼウムでは、ロシアに祖国を滅ぼされた763名のポーランド孤児が大正9年と大正11年に敦賀に上陸したこと。そして各地での子どもたちの暮らしや本国へ帰るまでの様子を伝えています。また昭和15年から翌年にかけて数千人ものユダヤ人難民が敦賀港に上陸した際の様子、敦賀市民との交流などが当時の新聞記事などにより紹介されています。「リンゴをそっとほおばった。甘酢っぱさが広がった。初めて口にした日本の味だった」これはあるユダヤ人難民が感じた敦賀の印象です。「服は汚れがひどく、ズボンのすそは破れ、靴も針金で繕っていた」などといった敦賀市民が見た難民の様子も伝えています。さらに難民が敦賀の駅前の時計店を訪れ売却した時計や、杉原千畝氏直筆の「命のビザ」のレプリカなど、当時を物語る貴重な展示物が並んでいました。

(※注1)要津とは交通・商業上の重要な港のこと。

命がけで逃げてきたユダヤ人と敦賀市民の心温まる交流

敦賀ムゼウムでは特に、命のビザやユダヤ人上陸に関する資料・展示物が多く紹介されています。昭和15年、第二次世界大戦が熾烈を極めるなか、ヨーロッパではナチスドイツが猛威をふるい、多くのユダヤ人が国を追われていました。ポーランドにおいても同様にユダヤ廃絶の動きが強まり、多くのポーランド系ユダヤ人は国を捨て生き延びる方法を探していたのです。ポーランドを脱出し、北にあるリトアニアという国に逃げたユダヤ人たち。迫害から逃れ生きるためにはシベリア鉄道(※路線図参照)を使って日本を経由し第三国を目指すしか方法がないと考え、リトアニアの日本領事館に在籍した外交官である杉原千畝氏に、日本の通過ビザの発給を求めます。そして杉原氏はユダヤ人たちのために大量にビザを発給。敦賀港は、杉原氏のビザを手にしたユダヤ人が上陸した日本で唯一の港なのです。

過酷な状況で上陸するユダヤ人難民と敦賀市民の間には、心温まるエピソードが残っています。たとえば一人の少年が難民に果物の入った籠を渡したこと。銭湯の主人が彼らの姿を見るに見かねて無料で浴場を開放したこと。貴金属を持ち空腹だと訴えて時計店にやってきたため、可哀相に思った店主は、本来しない買い取りを行ない、さらに台所にあった食べ物を渡したこと。そんな敦賀の人々の優しさに触れたユダヤ人難民は『ツルガの町が天国に見えた』『私達は何百年経とうとツルガを忘れない』といった感動の言葉を数多く残しています。

「迫害から命がけで逃げて来て最初に踏んだ日本の地。彼らの敦賀での滞在は短いものでしたが、それでもいろんな出来事があったようです。たとえば宿泊した旅館が夜とてもにぎやかだったようで。けれどそのうるささが逆に『人間が生きている証拠ですごく安心した』などと話しています」と古江さんが教えてくださいました。そんなユダヤ人難民たちの証言をもとに、敦賀のその旅館はどこなのか?誰がりんごを渡したのか?などを可能な限り調べ、細かく展示してあるのもこのムゼウムの特徴。そしてこれらの調査、資料集め、展示してある写真パネルの製作など全てに関わったのが館長の古江さん自身だと知り、驚いてしまいました。


ヨーロッパから約1万キロ以上旅したユダヤ人難民が、敦賀の時計店で売却した婦人用腕時計。3度の空襲を受けながらもユダヤ人難民が“天国”と言った敦賀に残っていることは、まさに奇跡の何ものでもない。

 

敦賀の歴史を通じて、命の大切さ平和の尊さを伝えたい

敦賀市役所の広報課に勤めるかたわらライフワークで郷土史会に入り、若い頃から研究会員として敦賀の歴史について調べていた古江さん。敦賀は戦時中に3回空襲を受けていたことから、ユダヤ人難民の上陸についての資料は何も残っていなかったそうです。そこで〝記録はないけれど、当時見た人が記憶しているはず。記憶を記録しよう.と思い、休みの日を利用して、ユダヤ人を見たという人を一人ひとり探し訪ねて話を聞くという地道な調査を決行。今から5年前のことでした。記憶している人々はもちろんお年寄りの方ばかり。悠長に調べている時間はないため、1年間という期限を設け、記憶している人を探すこと、記憶を聞き正確に記録する。さらに、その記録された内容の検証作業などを徹底して行なったそうです。苦労の末、ようやく厳選された32のエピソードが集まりました。

ちょうどその頃、湖西線・北陸本線直流化開業(注2)のイベントの一環として市から「人道の港展」を約一ヶ月間やってほしいとの依頼が。そこで集められた32の証言とともに、既に調べてあったポーランド孤児や杉原氏についての歴史も一緒に紹介したところ、地元ばかりか全国各地から続々と見学者が訪れ、なんと一年間も延長開催されたそうです。それと同時に〝この素晴らしい歴史をぜひ常設にして紹介してほしい.〝子ども達に教えてあげたい.という要望の声がたくさん届き、その反響を受けた敦賀市が動いて常設展示の話が持ち上がりました。

 


「このムゼウムでは、政治・宗教・民族問題などには触れず、命の大切さ・平和の尊さを広く伝えています」と語る古江さんは、現在、市役所を退職し、嘱託の館長として勤務するかたわら、ユダヤ人難民やビザの調査・資料収集を続けられている。

古江さんは常設するにあたり、ムゼウムの目的を明確に決めました。「なぜユダヤ人難民は、1万キロ以上の道のりを経て日本へ来たのか?それは生きるためですよね。中には、身ごもった女性もいて『私一人ならあきらめていたかもしれない』と語っています。全ては家族のため、自分の子どものために生きることを選んだ。そしてこんな悲劇を繰り返さないためにも、戦争は二度とあってはならない。だからこのムゼウムでは、敦賀港で起きたポーランド孤児、ユダヤ人難民、杉原氏の出来事を通して敦賀市民がどう関わったかを紹介しながら〝命と平和の大切さを伝える施設.でありたいと考えています。それは決してぶれてはいけないことだと思っています」

戦争の悲惨さ残酷さに胸を痛める一方で、人道主義を貫いた杉原氏の行動や難民たちを何の偏見もなく温かく迎えた敦賀の人々の優しさに、自然と涙する。それはこのムゼウムが、古江さんの指針どおり、命の大切さと平和の尊さを純粋に伝える場所だからに他ありません。ムゼウムを後にしてからも〝感動.という単純な言葉では言い表せない、いろんな思いが溢れてきます。そして私は目の前に広がる人道の港・敦賀港の景色を眺めながら〝今度はあの人と一緒に見に来よう.そんなことを考えていました。

(※注2)それまで交流電化されていた北陸線の長浜|敦賀間、および湖西線の永原|近江塩津間が平成18年、直流に切り替えられ、新快速が敦賀まで乗り入れられるようになるなど、京阪神と滋賀県湖北地区・福井県嶺南地区との間の交通の便が格段に向上しました。